- (11)武川町山高 実相寺の厄除(やくよけ)地蔵尊
- (12)須玉町東向 前田のぼたもち地蔵
- (13)長坂町大八田 夏秋の勝軍(しょうぐん)地蔵
- (14)白州町上教来石 国道沿いの地蔵
- (15)大泉町西井出 宮地の延命地蔵
(11)武川町山高 実相寺の厄除(やくよけ)地蔵尊
掲載:広報ほくと2008 1月号 No.39 p.24
実相寺の厄除地蔵尊。
新しい年を迎え、今年も佳い年となるよう祈るのですが、人には運気の浮き沈みがあるようです。先人たちは経験と知恵から沈みの年齢を見出し、それを「厄年(やくどし)」と名づけました。今でも、除災招福を願う厄除(やくよけ)の習わしが、さまざまな形で行われています。
実相寺(じっそうじ)では2月14日が厄除参りの日。前日夕刻から14日の午前にかけて地蔵尊の耳が開き、人々の願いを聞き入れます(実相寺の厄除地蔵は一年中耳を開いている、ともいわれています)。コメの粉でつくった団子を年齢の数だけ供え、厄払(やくばらい)の祈祷を願う人で、境内は毎年賑(にぎ)わいます。
50年ほど前までは、山高(やまたか)地区全戸で団子をつくり、トゲのある枝に刺して屋内に飾りました。「その頃こんなことがありましたよ」とお寺の方がおっしゃるには、「ある日、どんな悪戯(いたずら)をしてもいいと言われ、集落の青年たちは、それならこの地蔵をこっそり隠して皆を驚かそうと企(たくら)み、心をわくわくさせた。ところが、さて動かそうとすると・・・、全く全く、びくともしない。地蔵さんのその重さに、実に驚いた」。石造り、高さ1m近く、半眼(はんがん)のまなざし。集落の青年たちを静かに眺めた地蔵尊は、数珠(じゅず)を携えた高僧像で、日蓮上人の姿だそうです。
昭和30年代まで、北杜の地域では薪(まき)や木炭の産出が盛んでした。その卸値(おろしね)は、毎年厄除参りの日を境に下がっていきました。季節の変わり目です。
地蔵データ:丸彫坐像。両の手に数珠。石製。高さ84cm、幅82cm。造立年明治35年。
(12)須玉町東向 前田のぼたもち地蔵
掲載:広報ほくと2008 2月号 No.40 p.24
かつて、「ぼたもち地蔵」と呼ばれる地蔵尊が在ったそうです。
昭和10年の記録にはあるのですが、現在は無くなったといわれている地蔵尊があります。「ぼたもち地蔵」です。
「武田信玄は甲斐鎮護(ちんご)のため、24の石地蔵をつくって国中(くになか) においたと伝えられており、その中の1体が須玉町の東向(ひがしむき)字前田(めえだ)の農道の隅にあった」そうです。
「村中の崇敬(すうけい)の的で御利益も多かったので、脚が痛いと言っては祈り、腰が痛いと願をかけ、若い男女は見目よくなることや、思う人と添いたいことなど、人知れず牛(うし)の刻 ※参りをし、少年は学業の進むことや力自慢のできることを願い、そして大願成就のお礼には自分の家で耕作したものでつくったぼたもちを自分の年齢の数ほどあげる。それで、『ぼたもち地蔵』とよぶようになった。そのうち村中で祀(まつ)るようになり、毎年、祭日を3月24日として、家々でその日はぼたもちをつくってあげるようになった。」と云われています。
※牛の刻は深夜2時頃
さて、信玄にまつわる同様の言い伝えが24の地蔵の数だけあれば面白いのですが、信玄の地蔵という史実は、実はなく、言い伝えは今のところ県内でも東向だけのようです。
かつて在った、とされる地蔵尊も、古老たちが「さて、在ったのか?」と首をかしげる時代になりました。
(13)長坂町大八田 夏秋の勝軍(しょうぐん)地蔵
掲載:広報ほくと2008 3月号 No.41 p.22
どうみても武人。でも、これは地蔵尊です。
顔面の目鼻は砕(くだ)け、右腕も肩から欠けて無いのですが、頭部に戴(いただ)いているのは甲、身にまとっているのは鎧。そして、左の掌(てのひら)に持つのは、直径5cmほどの丸い珠(たま)・・・・・・。
これは、武人の姿の地蔵尊で、「勝軍(しょうぐん)地蔵(じぞう)」と呼ばれ、長坂町大八田地区の夏秋(なつあき)の或る寺に安置されています。 勝軍地蔵は、悪業(あくごう)煩悩(ぼんのう)の軍に勝つ地蔵として、やがては、戦勝をもたらす地蔵として、鎌倉後期から信仰されました。
さて、今や無人となった夏秋の寺の勝軍地蔵、どういう理由でここにあるのでしょう。 勝軍地蔵は一般に、甲冑(かっちゅう)を着け、錫杖(しゃくじょう)、宝珠(ほうじゅ)を持つ立像が多く、馬に跨(またが)ったのもあります。夏秋のは珍しいことに古墳(こふん)時代の甲冑を着けています。
昭和初期のことです。夏秋地区の畑から、直径17m、高さ約3mの円墳(えんぷん)※が発掘されました。そこには、人骨、大刀、耳飾り、馬具等々が埋められていたことから、当地の有力豪族の墓で、6世紀末から7世紀初めの古墳と分かりました。
地元の人たちは、霊を慰めるために、知る限りの古墳時代の姿を地蔵尊にして、寺に安置したのでしょうか。
昭和12(1932)年から日中戦争が始まりました。夏秋の若者は、勝軍地蔵の前に詣(もう)でてから出征(しゅっせい)したのかもしれません。
※この円墳は「夏秋天王塚古墳」といいます。残念ながら出土品は行方知れずですが、詳しく知りたい方は、「北杜市考古資料館」の展示をご覧ください。
地蔵データ:石像丸彫立像。左手に宝珠。欠如により右手不明。総高98cm。銘なし。造立年代不明(昭和7年以降と考えられるが・・・確認できず)。
(14)白州町上教来石 国道沿いの地蔵
掲載:広報ほくと2008 6月号 No.44 p.19
国道20号沿いに、大きな地蔵菩薩が、道行き交う人々を眺めています。
国道20号線が長野県へとさしかかるあたりに,江戸時代の甲州街道と交わる三叉(さんさ)路があり、そこを少し下ると、萬霊塔(ばんれいとう)や庚申(こうしん)塔、馬頭観音(ばとうかんのん)に囲まれて、ひときわ大きな地蔵菩薩が座っています。教慶(きょうけい)寺の開祖蘭渓(らんけい)上人(しょうにん)(1213-78)が、村人の難儀を救おうと安置した、と伝えられる地蔵です。安置以来、村には悪病も追いはぎも影ひそめ、平和な生活が続いたといわれてます。
霊験あらたかであることを物語る話は、「昔むかしのこと」としてありがたい話となるものですが、この地蔵尊、この2,30年にあっても、語る話に不足しません。
たとえば、昭和48年の夜のこと。子連れの一家が諏訪に行く途中この三叉路にさしかかったとき、誰かに「止まれ!」と大声で制されました。その声に睡魔から覚め、見れば、あとほんの少しで大事故に遭うところ。地蔵さんに制された、と実感した横浜の家族の話。たとえば、ある夫婦が農作業を終え、テーラーで三叉路を通ったときのこと。運転をあやまって4m下の田んぼに転落。が、夫婦とも無事。墜落の瞬間、お地蔵さんが見えたという話(いずれも『白州町誌』より)。
近年にもこんな話が語られる、めずらしい地蔵です。
地蔵データ:丸彫坐像。安山岩製。左手宝珠、右手錫杖(現在は欠損)。総高205cm、坐高87cm、蓮座の高さ46cm。造立年代は不明だが「正徳」の刻銘あり(正徳年間:1711~16)。
(15)大泉町西井出 宮地の延命地蔵
掲載:広報ほくと2008 8月号 No.46 p.28
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、 忠興寺境内の石造仏は共同墓地へ。
大泉町八嶽(やつがたけ)神社付近の共同墓地にある地蔵菩薩は、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)の、法衣をまとった僧侶姿。地元の方々は「延命地蔵」と呼んでいます。八ヶ岳を背にすーっと立っているその姿は、如何(いか)にも儚(はかな)げで、気品ある風情。資料によると「三界萬霊等」と何処かに刻まれているそうですが、今は全く判読することができません。
萬霊塔(ばんれいとう)(塔は等)とは、供養塔の一つで、寺の境内や墓地、道端など、人目につく場所に建っていることが一般的です。死者の霊を慰め供養することが目的ですが、特に誰彼という対象ある供養ではなく、生命あるものことごとくの霊を供養するのが目的。
さてこの地蔵尊、造立年代不明ですが、1683年開山と伝わる神石山忠興寺(ちゅうこうじ)が、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の動きで明治5年に廃寺となり、その折、境内にあった石造物すべてが西井出宮地の共同墓地に移されたとのこと。共同墓地では江戸期のものと考えられる種々の石造物16基を数えることができ、すんなりとした儚げな地蔵菩薩も、おそらくこの時に移されたものと推測されます。
ところで忠興寺は、廃寺後、寺は西井出学校(井出学校とも言い、泉小学校の前身)の校舎として使用され、明治10年3月、八嶽神社の拝殿と共に火災で焼失しました。
地蔵データ:丸彫立像。安山岩製。左手宝珠、右手錫杖。総高205cm、像の高さ118cm、蓮座の高さ54cm。造立年代不明。