北杜市の地蔵(1)~(5)

  1. (1)北杜のお地蔵さん:須玉町若神子(わかみこ)の味噌嘗地蔵(みそなめじぞう)
  2. (2)北杜のお地蔵さん:明野町上手のかさ守地蔵尊
  3. (3)北杜のお地蔵さん:高根町堤のお釜地蔵さん
  4. (4)北杜のお地蔵さん:長坂町大井ヶ森の岩船地蔵
  5. (5)北杜のお地蔵さん:小淵沢町松向(しょうこう)本村の鼻取地蔵(はなどりじぞう)

(1)北杜のお地蔵さん:須玉町若神子(わかみこ)の味噌嘗地蔵(みそなめじぞう)

掲載:広報ほくと2006 11月号 No.25 p.17

お地蔵さんのからだじゅうに塗られているのは……、「味噌」

みそなめ地蔵

国道141号線沿いに正覚寺(しょうかくじ)というお寺があります。その参道入口に鎮座しているのが、高さ170cm余のお地蔵さん。
お地蔵さんが着ている衣(ころも)は、なんと「味噌」。全身はもとより、顔にも頭にも。肌が見えないくらいしっかりと塗られています。背中にまわれば縄でしばったような幾筋もの傷痕。「放光(ほうこう)地蔵」の名もあるこの地蔵、その昔、信玄公が「信州川中島から甲州に遷(うつ)そうと、縄をまきつけてズルズルと引いてきた」とも、「大門峠であまりに光り輝く地蔵ゆえ、まぶしくて兵を進められず、甲州へ引いてきた」とも。
霊験(れいけん)あらたかで、自分の体の病んでいる部分と同じ所に味噌を塗って祈願すれば、必ず治るといわれています。平成の今日、地蔵さんが放つ味噌の匂いは、決して古いものではありませんでした。昨夜も、祈願した方がいたようです。


「お地蔵さん」とは・・・
「お地蔵さん」とは、地蔵菩薩(ぼさつ)のこと。江戸時代になって民間信仰と結びつき、火防・子育て・病気平癒など、庶民のあらゆる願いを叶えてくれる菩薩として広まりました。今に残る地蔵菩薩から、かつての北杜市の人びとの願いが見えてきます。

(2)北杜のお地蔵さん:明野町上手のかさ守地蔵尊

掲載:広報ほくと2006 12月号 No.26 p.20

ここに集まる地蔵たちは、時を隔てた明野の人びと。

かさ守地蔵尊

茅ヶ岳(かやがたけ)を前方に見ながら農村公園に向かう途中、左の道筋にあるのが、かさ地蔵公園。公園の主は、かさ守(もり)地蔵尊です。
幅150cm、厚さ20cmほどの石の屋根におおわれた石室--このような厨子(ずし)を「龕(がん)」といいます--におさめられている地蔵は10体ほど。龕の周囲や上には、20~40cmの地蔵が約50体。いつから置かれたのか、わかりません。一見して古いのや新しいのが、合わせて60体はありそうです。全てが、太陽が出る方向、東をみています。
かさ守の「かさ」とは、「瘡(かさ)」、つまり、できもののこと。笠(かさ)ではありません。祈願すれば、できものや腫(は)れものが治るといわれています。しっかり治れば、石か木で地蔵尊をつくって、必ずお礼参りをします。 子授(こさず)け地蔵ともいわれ、人に知られないように、このうちの一体を借りて家に持ち帰り、添い寝をすると子宝に恵まれるとか。授かった人は、必ずお礼に一体つくって供えます。そんなこんなで、これだけの地蔵さまたちが集まりました。
写真説明:明野町上手のかさ守地蔵尊龕(がん)の中・上・周囲に、お地蔵さんがおよそ60体。地蔵菩薩には「右手に錫(しゃく)、左手に宝珠(ほうじゅ)」の姿が多いが、ここは、両手を合わせた「合掌」の姿がほとんど。子どもを連れたのもある。


(3)北杜のお地蔵さん:高根町堤のお釜地蔵さん

掲載:広報ほくと2007 1月号 No.27 p.17

赤松の根もとに凛々(りり)しい面立ちの地蔵尊。

お釜地蔵さん1

高根町堤(つつみ)集落の北はずれに、姿の美しい一本の赤松が立っています。松の根もと斜面には、まるで釜戸(かまど)(竈・ヘッツイ)のように掘られた祠(ほこら)があり、なかを覗くと小さなお顔の地蔵尊。松の気品と似かよう端正な面立(おもだ)ちです。


お釜地蔵さん2

近所の古老に尋ねると、明治の時代、すでに地蔵さんはそこにいて、風邪をひいたときには南蛮(トウガラシ)と茶を供えて拝んだのだとか。だから、南蛮地蔵とも呼ぶのだとか。今でこそ、「風邪がなおりますように」と手を合わせる人は少なくなりましたが、毎年12月30日晦日の日、地蔵さんの前には堤の人たちの手によって、松の枝と餅が供えられるのだそうです。このあたり、以前は集落から離れた、ビョウショウと呼ばれていた地域。明治のころ、赤痢(せきり)等の患者さんがいた避病舎(ひびょうしゃ)があったと考えられます。地蔵尊の周りにある五輪塔(ごりんとう)の一部が、ビョウショウと堤集落との歴史を物語っているようです。


(4)北杜のお地蔵さん:長坂町大井ヶ森の岩船地蔵

掲載:広報ほくと2007 2月号 No.28 p.15

石の船に乗った、江戸時代のお地蔵さん。八ヶ岳山麓に、なぜ船が?

岩船地蔵

県道長沢-小淵沢線の大井ヶ森関所(口留(くちどめ)番所)跡から小淵沢方面に200mほど行くと、大井ヶ森聖(しょう)観音堂(旧西方寺跡)があります。その境内(けいだい)にあるのが、船に乗ったお地蔵さん。船は、石でできています。「岩船地蔵」と呼ばれるこの地蔵尊は、下野(しもつけ)国(のくに)(栃木県)は岩船山高勝寺を起点に流行した踊(おどり)念仏の地蔵尊で、八ヶ岳南麓には、長野の佐久地方を経て、村から村へ連鎖的に伝わってきたもの。地蔵尊の背には、「享保四年」「大井ヶ森 施主善男女百三人」と刻まれています。これだけの人が集まって、300年前に、いったいどんな時間が繰り広げられたのでしょう。
鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らし、幟(のぼり)をたてて、船に乗せた地蔵尊を担(かつ)ぎ、近在の村へ順々に村送りしていくのが、この信仰。大井ヶ森村男女百余人の、江戸時代の賑(にぎ)わいが聞こえてくるようです。ところで、岩船地蔵のご利益は?はっきりした資料や伝承は残っていませんが、船の目的地は、村送りする近在の村というよりも「西方極楽浄土」であって、「船に乗っての旅立ち」が、ご利益だったのでしょう。
(参考/福田アジオ『歴史探訪の手法-岩船地蔵を追って』)
地蔵データ:船形の医師に乗った丸彫の立像。像の高さ58cm、船の長さ74cm。北杜市内では21体の岩船地蔵が確認されています。その建立時期は享保4年(1719)と翌年に集中しており、この時期に流行したことがわかります。今に残る地蔵尊は、村送りのあとに、記念として建立したものです。


(5)北杜のお地蔵さん:小淵沢町松向(しょうこう)本村の鼻取地蔵(はなどりじぞう)

掲載:広報ほくと2007 3月号 No.29 p.18

今ではすっかり聞くことがなくなった鼻取(はなどり)とは?

間口一間(いっけん)板張りのお堂の中で、静かに合掌しているのは、数体の地蔵尊。本村の人たちが「子どもが授かりますように」と納め続けてきたもので、全体を総称して、「鼻取地蔵」と呼んでいるそうです。
鼻取?聞き慣れない言葉ですね。
田植え前の代掻き(田に水を引いて田土を砕くだく作業)をするとき、牛馬に馬鍬(まんが)を引かせるのですが、牛馬の後ろで馬鍬をあやつる人を後取(しんどり)、牛馬の上で鼻先につけた2m近い竿をあやつりながら方向を決める人を、鼻取といいます。
ある日、鼻取がいなくて困っていると、見知らぬ人が現れて手伝ってくれたのだとか。代掻きが終わって礼を言おうとすると、姿が見えない。探してみると、近くの地蔵尊が泥まみれになっている。あれは地蔵尊の化身、と手厚くまつり、これ以後、鼻取地蔵と呼び、豊穣(ほうじょう)を祈願するようになったとか。

このお堂、昭和33年までは、お日待(ひまち)講が行われる茅葺の家でした。入口の桜に鐘を吊してカーンと打てば、集まりの合図。鐘には「文化二年…本村…西村和泉守作」と刻まれています。……ひと昔前の話です。
地蔵データ:寒かろうと赤い衣を着せ、正月には松を供え、団子も供えて守り続けた鼻取地蔵。昨年(平成18年)の夏、心無い人に5体も持ち去られ、現在4体しかありません。持ち去る人には、守り続ける人の姿が見えないようです。丸彫立像。合掌型。大きい像が高さ40cm。小さい像が25cmほどです。

はなどり地蔵

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