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北杜市民俗文化財と行事の紹介(6)~(10)

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  1. (6)北杜市の民俗行事:お天神講とお正月の準備
  2. (7)北杜市の民俗行事:白州・高根・明野に伝わる獅子舞
  3. (8)北杜市の民俗行事:雛まつりは、三月?四月?
  4. (9)北杜市の民俗:端午の節句
  5. (10)北杜市の民俗:マンガアレイ

(6)北杜市の民俗行事:お天神講とお正月の準備

掲載:広報ほくと2005 12月号 No.14 p.20

「お天神講」が終わると「オトシガミサン」「マツヘイシ」。そして「オモッセ(ィ)」。

冬といえば、「お天神講」。子どもたちの行事です。12月25日に行います。講の目的は、学問の神様菅原道真を祀(まつ)って「勉強ができますように、文字が上手になりますように」というものですが、実際は、楽しく遊ぶ子どもたちだけの祭り。
50年ほど前は、少しのお金とコメ1合を持ち寄って、サンマ飯など当番の家で炊いてもらって食べたあと、宝(ほう)引(び)き・双六をして皆で遊んだとか。まじめな(?)地域では、習字紙に「天満天神宮」と書いて笹をつけて道祖神に立てに行ったそうです。
さて、いっぽう大人は、お正月の準備。かつては年の瀬も押し詰まると、半紙に「年徳神」と刷ったものを売りに来る人がいて、これを「正月棚(しょうがつだな)」の中央に貼りました。それから、お餅や松飾りの準備です。マツヘイシとは、松飾り用の松をお迎え(ヘイシ)すること。29日は苦餅、苦松、31日は一夜餅、一夜松といって嫌われるので、28日と30日に大方のことを済ませます。お供えは、オトシガミサン、氏神サン、水の神サン、蔵の神サン、便所神サンなどに供えます。子どもたちは、年末に書き初めを書いて、半紙に書いた自分のものと友達のものを交換しました。これを「書き初めをクム」といったそうです。何十枚と集まった書き初めを正月棚に飾ります。子どものいない家では、近所の子どもの書き初めをもらって棚に上げます。その場合お歳暮だといってお礼のお金をもらいましたので、子どもたちはせっせと書きました。
さて、オモッセ(ィ)のこと。大晦日のことをオモッセ(ィ)と呼ぶ地域が多いようです。オモッセ(ィ)には、白いご飯と塩鱒や鰯を食べました。今は昔の話です。

(7)北杜市の民俗行事:白州・高根・明野に伝わる獅子舞

掲載:広報ほくと2006 1月号 No.15 p.15

一月十五日は小正月。この時期に行われる行事が獅子舞。

獅子舞は「獅子神楽」といわれる神楽の一分野です。六十年前の太平洋戦争以前には、各村に、必ずといっていいほど一組の獅子舞組がありました。
戦後の若者の都市への流出、考え方の変化などによって、舞いを受け継ぐ人が不足し、その姿が消えた地域が多いなか、白州町下教来石地区の獅子舞は、保存会の力で現在も伝承され続けています。
白州町のほか、高根町五町田地区の御所と久保の集落では、現在も1月15日に行い、獅子が各戸を回ります。明野町上神取道上でも、平成17年、住民の力で復活させました。
大泉町西井出地区下井出では、大正の中ごろまで、長坂町大八田地区夏秋では、昭和40年代まで行われ、その獅子頭は、公民館や郷土資料館に今でも大事に保管されています。このほかにも、須玉町の神戸地区・増富地区も昭和四十年代まで、武川町では昭和10年代まで行われていました。

獅子舞

ところで、「獅子」ではなく、「虎」が舞を舞う「虎頭の舞」が白州町台ヶ原に残されています。秋九月の夜、田中荒尾神社祭礼の前夜祭として舞います。これは明治初年まで伝承されていた舞を、集落の若者を中心にした保存会が、調査研究のうえ、平成3年に復活させたものです。

(画像は北杜市指定無形民俗文化財の獅子舞保持者/白州町下教来石保存会)
1月14日の午前4時から、無病息災などを祈願したあと、集落内全戸を舞い歩きます。舞は本舞と剣舞の2種。一般の獅子舞(男獅子)とちがって、物静かで優雅。女獅子とも呼ばれています。


(8)北杜市の民俗行事:雛まつりは、三月?四月?

掲載:広報ほくと2006 3月号 No.17 p.15

「雛まつり」は、ひと月おくれの「4月3日」。

雛まつり1

雛まつりは、お雛さまを飾って、女の子のすこやかな成長を祈る節句。もともと旧暦の3月3日に行われていた行事です。旧暦3月は、今の4月にあたるわけで、新暦に移行している地域が多いなか、北杜市内ではどの地域でも、旧暦3月、つまり4月3日に行っています。
高根町にお住いのKさん(大正15年高根町生まれ)の話では、「5,6歳のころだから、昭和の初めのころだねえ、お雛さまは記憶にないけれど、近所の子どもたちとお菓子を食べてオボコンジョ(お人形ごっこ)した覚えがある」とのこと。「韮崎の親戚に行って、河原の土手にゴザをしいて、重箱に詰めた海苔巻きや野菜の煮たのを食べた、うれしい思い出」もあるそうです。そのころの海苔巻きは、にんじん、ごぼう、特別にたまごが入っていて、お赤飯をつくることもあったとか。Kさんが母親になった昭和2,30年代になると、初節句のときは、紅白のまんじゅうをつくって近所(十数軒)にくばり、近所の女衆をお茶に呼んだそう。子どもは呼ばなかったとか。


雛まつり2

ところで、男雛と女雛の並び方のことですが、どっちが右か、ご存知ですか?古来、「男雛が向かって右」なのです。今は左が男雛ですね。なぜ、変わった かというと・・・。1921(大正10)年のこと、昭和天皇が外遊した折、西洋の例にならい向かって左側に立ったことから、この飾り方が普及したのだそうです。
4月。ヨモギ、モモの花…。麓に春が訪れ、八ヶ岳・甲斐駒・茅ヶ岳の残雪をあおぎながら、いよいよ「農」がはじまる美しい時節。旧暦で祝いつづける理由はここにありそうです。


(9)北杜市の民俗:端午の節句

掲載:広報ほくと2006 5月号 No.19 p.16

端午の節句。じつは稲作や女性との関連が深いのです。

端午の節句1

端午(たんご)の「端」とは、「初め」という意味。つまり、端午とは、「月の初めの午(うま)の日」ということ。五月のこの日、じつは田植えを前にした重要な日。稲作の、神(かみ)迎(むか)えの日なのです。
かつて、神を迎えるため、この日早乙女(さおとめ)は男を戸外(こがい)に出し、忌(いみ)籠(こ)もる風習がありました。そのとき戸や軒(のき)に差して籠もる印(しるし)としたのが、邪気(じゃき)を祓(はら)うとされる菖蒲(ショウブ)やヨモギ。……元来は、女の行事だったわけです。やがて鎌倉時代、武士の社会になったことで、菖蒲が尚武(しょうぶ)(武を尊ぶこと)につながることから、男の子の節句に変わりました。


端午の節句2

さて、北杜市では……。早乙女の名残(なごり)こそみられませんが、ある地区では、新しく嫁に来た人が、あいさつに歩く慣習があったそうです。戸外での作業を前にしての顔見せですね。女の行事の名残かもしれません。今は昔です。
農業用水路の清掃も、お神楽(かぐら)の奉納も、八十八夜も過ぎ、いよいよ田植え。弾む気持ちを表すように、彼方此方に、鯉のぼりや幟(のぼり)がはためきます。


(10)北杜市の民俗:マンガアレイ

掲載:広報ほくと2006 6月号 No.20 p.17

マンガアレイ…って、どういう意味?

マンガ(馬鍬)

田植えが五月に行われるようになったのは、機械植えになった昭和40年代からで、手植えの頃の田植えは、6月でした。6月30日ころ、全地域の田植え終了を待って、区長は「マンガアレイ」の触れを出したものだと、古老は言います。その日数、およそ3日間。
マンガアレイとは、「マンガ洗い」のこと。その3日間は、使い終わったマンガ(馬鍬)を洗って手入れし、みなで酒を飲み交わし、赤飯、あべかわ餅、ぼた餅を楽しんだそうです。昭和30年代に機械が普及するまで、マンガを牛馬に引かせて行う田植え前の「田こなし」は、人も牛馬も泥だらけになる大変な作業でした。田植えまでの一連の作業を経てようやく訪れる三日間のマンガアレイは、農家の大事な休養日でした。


牛馬に引かせて行う田植えの様子

マンガアレイが終わると、今度は養蚕と畑作が待っています。
今は区長のお触れも養蚕もなく、休養の日は各家によってまちまちですが、田植えが終わってホッとする気持ちは、同じのようです。


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