北杜市の文化財紹介(21)~(25)

  1. (21)北杜市指定天然記念物 本村の関のサクラ
  2. (22)北杜市指定有形文化財(歴史資料) 坂本清三郎宛書簡
  3. (23)山梨県指定有形文化財(建造物) 三輪神社の六地蔵幢
  4. (24)国指定史跡 梅之木遺跡
  5. (25)北杜市指定史跡 長閑屋敷跡

(21)北杜市指定天然記念物 本村の関のサクラ

所在地:北杜市白州町横手2699
管理者:中山茂則
指定年月日:昭和48年12月1日
掲載:広報ほくと2007 4月号 No.30 p.22

本村の関のサクラ

武川町柳沢地区より県道横手・日野春線を白州方面に進み、駒のマツを過ぎておよそ200m、本村集落入口の細い道を右に入り、中山の麓に沿って北に向かうと道端にこの巨大な桜があります。(駒のマツの前に案内看板があります。)
樹種はエドヒガン。根廻り6.65m、樹高約15m、枝張り東西11m、南北17.5mを測る県内有数の巨樹です。道端の急斜面にへばりつくような根元はとても力強い印象を受けます。名称の由来は、近くを古道が走り、関所があったということによります。この古道はかつての信州路の一つで、甘利山麓から清哲、宇波円井、新奥、黒沢、山高、柳沢を経て、この地に至り、さらに竹宇から鳥原を通って信州口に達したと考えられています(現在の韮崎市~北杜市武川町・白州町~長野県境)。
この桜は例年4月中下旬に満開となりますが、今年はどうでしょうか。その昔は関所を行き交う人々で賑わったことでしょうが、今では喧噪と無縁の地となっています。花の咲き誇る姿はまさに孤高の桜といえるでしょう。


※平成21年12月24日県の天然記念物に指定名称が「関のサクラ」に変更しました。

(22)北杜市指定有形文化財(歴史資料) 坂本清三郎宛書簡

所有者:高根町村山北割1965番地 白倉全司氏
指定年月日:平成8年4月25日
掲載:広報ほくと2007 5月号 No.31 p.17

坂本清三郎宛書簡

この資料は縦27.5cm、横20.5cmを測る、縦長折り紙形式の書簡で、包み紙等は伝承されていません。内容は忠節を尽くした坂本清三郎(サカモトセイサブロウ)に対して差出人の清水昌光が村山郷の※知行主(地主)となったならば、必ず一騎前(知行地の配分)を行うというもので、追って書きには、今後も村山に在郷しているのなら一騎前をあたえるが、もし津金などへ越しても、五・六貫は与える、というものです。
この書簡は江戸時代に編纂された『甲斐国志』にも採録されており、干支の部分を「戌寅」(つちのえとら)と読み間違えたことから寛永15(1638)年とされていましたが、戦国時代末の協力関係を示す内容であること、干支が「戌子」(つちのえね)と確認されたことからから天正16(1588)年のものと考えられます。差出人の昌光とは高根町箕輪に勢力を張った清水昌光のことです。清水氏は津金衆に属し、昌光は天正10年の武田家滅亡後もこの地に残り一族をとりまとめた人物と考えられています。
この書簡からは昌光が村山の知行主となる運動をしていたこと、坂本清三郎は家臣ではないものの与同者(寄騎)として昌光に従っていたことがわかります。この資料は戦国時代末期、郷土を舞台に活躍した土豪のようすを垣間見せてくれます。


※知行(ちぎょう)とは、大名・領主や地主が家臣に俸給として土地の支配権を与えること。また、その土地のこと。

(23)山梨県指定有形文化財(建造物) 三輪神社の六地蔵幢

所在地:須玉町若神子280
指定年月日:平成2年2月7日
掲載:広報ほくと2007 6月号 No.32 p.15

三輪神社の六地蔵幢

須玉町若神子宿にある三輪神社の一隅に安山岩製の高さ3m近い堂々とした六地蔵幢(ろくじぞうとう)があります。
六地蔵幢は供養塔の一種で、地蔵信仰の流行・発展に伴い、山梨県では室町時代以降盛んに作られるようになりました。禅宗と共に中国からもたらされた建築様式を中台(ちゅうだい)・笠の内側などに取り入れた「甲州型」とも呼ばれる秀作が峡北地域を中心に見られます。
この六地蔵幢は「甲州型」の典型的なもので、六地蔵像が刻まれた龕部(がんぶ)は特に入念に作られています。幢身には「永享七(1435)年甲寅十月十六日」の銘と「西連坊 並一結衆」と刻まれ、念仏行者西連坊と地域住民多数がこの六地蔵幢を建立し供養を行ったことがうかがわれます。以前に紹介した同じ若神子の長泉寺の名号板碑などと合わせて室町時代の多様な信仰生活を知ることができる興味深い資料です。
また、三輪神社では毎年7月30日に「ほうとう祭り」が行われます。行事の際の儀礼食として小豆ぼうとうが作られることからこの名がついたものです。夏越しの祓いの儀礼が藁人形に穢れを託して送るかたちで伝えられ、これに害虫除けの虫送りの行事が習合した特色豊かな行事です。これについては別の機会に紹介したいと思います。


(24)国指定史跡 梅之木遺跡

平成26年3月18日国指定史跡

梅之木遺跡

北杜市明野町浅尾で発掘調査が実施された梅之木遺跡は、平成16年度から4年間で遺跡の範囲、内容、時期を詳細に確認する発掘調査を実施しました。これまでの調査で、全国的にも稀で文化財的価値が高いとされる発見がありましたのでご紹介します。


住居跡

「住居跡」
縄文時代中期末葉(約5千年前~4千5百年前)の竪穴住居がおよそ150軒程度、環状集落の形態で、確認されました。竪穴住居は地面を直径5~7メートルの円形に掘りこみ、5~7本の柱を建てた構造で、円錐形の屋根を掛けていたと想定されます。住居跡から多くの土器、石器が出土しました。


水辺の作業場

「水辺の作業場」
梅之木遺跡に隣接する湯沢川のほとりで、縄文時代の人たちが調理などさまざまな作業をした痕跡が確認されました。山梨県では初めての発見で、全国的にも類例の少ないものです。作業場では、敷石(しきいし)住居、石蒸料理のための施設、土器を焼いた可能性がある焼土跡などがたくさんの土器や石器とともに発見されました。


縄文人が歩いた「道」

縄文人が歩いた「道」
環状集落と「水辺の作業場」をつなぐ道路跡も発見されました。環状集落から20m下の湯沢川へ下るには、急な斜面を歩かなければなりません。梅之木遺跡の人たちは、斜面を幅1mほど削って平坦面とし、斜めに緩やかに下る道を造成していました。
これらの重要な発見が評価され、平成26年3月18日、国の史跡の指定を受けました。北杜市の豊かな自然と悠久の歴史を象徴する史跡として、後世に永く受け継ぎたいと思います。


(25)北杜市指定史跡 長閑屋敷跡

所在地:長坂町長坂上条1032
指定年月日:昭和45年10月1日
掲載:広報ほくと2007 9月号 No.3 p.19

長坂上条集落と長閑屋敷跡の位置

長坂町の長坂上条集落の南東に、江戸時代に長閑原(ちょうかんばら)と呼ばれていた山林があります。この山林の北側に張り出したところに館跡が残っていて、戦国時代、武田信玄・勝頼に仕えていた長坂釣閑斎(ちょうかんさい)の館であったと言われています。
館跡の規模は東西60m、南北80mです。地形に制約されていますが、土塁(どるい)と堀によって四角形に囲まれています。南側の土塁の中央が切れて、そこから堀を渡る土橋があるので、ここが虎口(こぐち、出入口)になります。このような館を方形居館といい、武士の館としてよく見られる構造です。なお、発掘調査は行われていないので、詳細は不明です。


長閑屋敷跡

長坂釣閑斎は、騎馬40騎、足軽45人を率いる足軽隊将として信玄に仕え、勝頼の代になると跡部大炊助(あとべおおいのすけ)とともに重用され、側近として活躍しました。
『甲陽軍鑑』に記された釣閑斎は、譜代(ふだい)の重臣を軽んじ、長篠の合戦では慎重論を唱える重臣の意見を聞かずに、合戦を主張する勝頼に賛同して大敗の原因となった人物として描かれています。しかし、この軍議に釣閑斎は参加していなかったとする古文書もあり、釣閑斎の人物像は謎に包まれています。最期は勝頼を追って自害しており、側近として近従していたことは確かなようです。


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