北杜市の文化財紹介(16)~(20)

  1. (16)山梨県指定有形文化財(建造物) 宇波刀神社の石鳥居
  2. (17)山梨県指定文化財 長泉寺名号板碑
  3. (18)山梨県指定有形文化財(考古資料) 下大内遺跡出土の壷形土器
  4. (19)山梨県指定有形文化財(建造物) 北原家住宅
  5. (20)北杜市指定有形文化財(歴史資料) 今川氏朱印過書(かそ)

(16)山梨県指定有形文化財(建造物) 宇波刀神社の石鳥居

所在地 北杜市明野町上手937
指定年月日 昭和46年4月8日
掲載:広報ほくと2006 10月号 No.24 p.13

うわと神社

明野町上手の宇波刀(うわと)神社には、平安時代末から鎌倉時代初頭頃に創建された石鳥居があります。鳥居の高さは2.2m、幅1.9mとやや小ぶりで、太い柱とどっしりと安定感のある印象が特徴です。県内最古ともいわれ、昭和46年(1971)には山梨県指定文化財になっています。台風や地震で、幾度か倒壊したらしく、現在、鳥居の一部は新しく作り直されていますが、古い鳥居の部品は、宇波刀神社に保管されています。
平安時代に創建された古い石鳥居は、山形県の蔵王の麓、大分県臼杵摩崖仏(うすきまがいぶつ)付近などにあり、いずれも山岳信仰、神仏習合信仰に関連して創建されたようです。県内では、甲斐市に金峰山信仰にまつわる鎌倉時代頃の古い石鳥居があります。宇波刀神社の石鳥居も金峰山信仰にかかわって創建されたのかも知れません。
鳥居の柱には、「貞観六年」(864)という年号が刻まれています。神社に残された古い鳥居の部品には、同じく平安時代の「大同」年号が刻まれていたともいわれます。ただし、これらの年号は江戸時代に国学研究が盛んになった際に、この鳥居の古さに気づいた人たちが追刻したようです。それでも県内最古の貴重な石鳥居であることには変わりがありません。ぜひ、近くでご覧ください。


(17)山梨県指定文化財 長泉寺名号板碑

所在地:北杜市須玉町若神子1973番地
指定年月日:昭和62年5月20日
掲載:広報ほくと2006 12月号 No.26 p.20

長泉寺名号板碑

板碑(いたび)とは石製の卒塔婆(そとうば)のことで、鎌倉時代から江戸時代にかけて全国的に作られました。多くが板のように薄く加工した石で作られていることからこのように呼ばれています。卒塔婆は供養塔ですので、追善供養することを目的に作られていますが、江戸時代には墓碑として作られたものもありました。
長泉寺の板碑は台座・礎石も含めた高さが3.09mと県内最大のもので、刻まれた紀年銘から文安3(1446)に建てられたことがわかります。三角形に尖った頭部と少し厚く削り残された額(がく)と呼ばれる部分を2条の線によって区切り、額の下に塔身部が続くという形状は、旧武蔵国を中心に分布する武蔵型板碑の典型的なものです。額に月輪で囲んだ阿弥陀三尊を表す種子(しゅじ)を彫り、塔身部には蓮座(れんざ)に載せた南無阿弥陀仏の名号と造立者、造立の目的、紀年銘を彫っています。種子とは仏を梵字で表したもので、この板碑の場合は中央に主尊であるキリーク(阿弥陀如来)、向かって右側にサ(観世音菩薩)、同じく左側にサク(勢至菩薩)が配されており、主尊の両脇の菩薩は脇侍(わきじ)と呼ばれます。造立の目的は、阿弥陀仏が若神子郷の時宗信者とともに時阿弥陀仏と仏禅尼の成仏を願って建てた、と刻まれています。
中世、長泉寺は逸見道場と呼ばれ、時宗の一大拠点でした。この県内最大の板碑は、当時の時宗の盛行と若神子郷の人々の信仰の篤さを物語る資料といえるでしょう。


(18)山梨県指定有形文化財(考古資料) 下大内遺跡出土の壷形土器

(下大内遺跡第225号土坑出土品一括)
所在:北杜市考古資料館に展示中
指定年月日:平成10年12月10日
掲載:広報ほくと2007 1月号 No.27 p.17

壷形土器1

写真の土器は、今から2500年前の弥生時代前期に使われた壷形土器で、明野町小笠原大内地内の圃場整備事業に伴う発掘調査により発見されています。高さ78.4cm、口縁部の直径は27.8cmです。弥生時代前期の土器が完全な形で発見されたのは山梨県内では珍しく、平成10年に山梨県の有形文化財に指定されています。
この土器はもともと貯蔵用につくられたものですが、最終的には骨壷として使われ、埋められていました。いったん土葬した亡骸(なきがら)を骨化した後に掘り出し、この土器に納めて埋葬し直したものです。
このような墓は再葬墓(さいそうぼ)と呼ばれ、東日本では多くの跡で発見されています。


壷形土器2

弥生時代前期には、西日本では本格的な米作りが始まっています。そして米作りの技術が急速に東日本に広がっていた時期でもあります。山梨県では、韮崎市宮ノ前遺跡でこの時期のものとされる水田跡が発見されています。高冷地が多い北杜市域では、弥生時代前期の集落跡や水田跡は現在まで見つかっていません。作りに適した湿地や低地がなく、気候も寒冷すぎたのが原因だと思われます。
ただし、この下大内遺跡のように、墓だけは僅かですが発見されています。韮崎市の低地を見下ろす八ヶ岳南麓や茅ヶ岳山麓の高台に墓をつくる習慣があったのか、それとも彼らの先祖であろう縄文時代人が生活した「故郷」に墓をつくりたかったのか。今のところはっきりした答えは出ていません。


(19)山梨県指定有形文化財(建造物) 北原家住宅

所在地:白州町台ヶ原2283
指定年月日:平成12年10月12日
掲載:広報ほくと2007 2月号 No.28 p.15

北原家住宅

北原家住宅の所在する白州町台ヶ原は甲州街道の宿場として栄えていました。この宿の家並みは間口を大きくとり平側を通りに面して建て、屋根は緩勾配で板葺(いたぶき)・石置きのものが東西に連なっていました。その北側のほぼ中央にある切妻(きりつま)中二階の大型町屋がこの北原家住宅です。市内では『七賢』といった方がピンと来る人が多いと思います。
当家は記録によると寛延二(1749)年頃に信濃の高遠から移住して造酒屋を営んだのに始まり、幕末には信濃諏訪高島藩の御用商人になりました。明治13年の明治天皇巡幸の際には菅原行在所として使われ、終戦まで西妻側の座敷三室が史跡に指定され、注連縄(しめなわ)が張られて家人も自由に出入りすることができませんでした。
当家の現在の主屋は残された古図との比較から天保一二(1841)年~嘉永七(1854)年の間に建てられたと考えられます。店側の大戸口から入ると大土間が広がり、八間通しの豪快な小屋組を見ることができます。また、書院造りの座敷部分には屋号の由来ともなった『竹林の七賢人』などの見事な彫刻欄間(らんま)が見られるなど幕末の大型町屋として全国的に見ても特筆されるものです。
左党のみなさんには待ちに待った蔵出しの季節の到来ですが、建物にも注目してお楽しみください。


(20)北杜市指定有形文化財(歴史資料) 今川氏朱印過書(かそ)

所有者:高根町村山北割1128番地 植松雄峰氏
指定年月日:平成8年4月25日
掲載:広報ほくと2007 3月号 No.29 p.18

今川氏朱印過書

この古文書は高根町村山北割の植松氏に伝えられたものです。内容は今川義元が駿河から三河までの領国内にある関所と渡船場の管理者に宛てたもので、「伊勢参りの信者40余人の各関所の通行料と船渡し場での船賃を免除するが、今切(浜名湖付近)の渡しでは船賃のみを払わせるように」と通知したものです。これを実際に使用した人々は特定できませんが、村山東割地内に伊勢大神社が所在することから、この周辺の人々がこぞって参宮したことが想像できます。
天文六(1537)年に武田信虎の娘於豊が駿河の今川義元に嫁ぎ縁戚関係が成立し、さらに天文二十三(1554)年、晴信(後の信玄)の長女が相模の北条氏政に嫁いだことにより甲斐・駿河・相模の三国同盟が成立しました。
この資料は大河ドラマ『風林火山』の時代背景を示すと共に、ドラマでは描かれない戦乱の世の中で伊勢参りをする群衆の祈り、願い、あるいは暮らしぶりを垣間見せます。


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