浅川伯教・巧兄弟の紹介

  1. 浅川伯教・巧兄弟
  2. 1.山梨県の八ヶ岳南麓に生まれた兄弟
  3. 2.伯教、朝鮮の美に惹かれ朝鮮へわたる
  4. 3.伯教、白磁と出会う
  5. 4.伯教と巧、柳とともに「朝鮮民族美術館」を設立
  6. 5.巧、半島の緑化を「自然法」に求める
  7. 6.巧、朝鮮半島に眠る

浅川伯教・巧兄弟

朝鮮の文化・民族を日本の国策として差別していた時代、
当時の日本人は気づくことがなかった朝鮮庶民の陶磁器・工芸品の美しさを日本へ紹介し、
朝鮮へのその愛情によって現在も日韓の架け橋となっている兄弟です

浅川伯教・巧兄弟イメージ

明治期の山梨県八ヶ岳南麓に生まれ、
日本の植民地となったばかりの朝鮮半島へ渡った浅川兄弟。
そこで眼にしたのは、統治国日本による朝鮮の文化・民族への
はなはだしい蔑(さげす)みの世界でした。

支配と抵抗の時代の中で兄弟は、
朝鮮という国をあるがままに感じ、あるがままで接し、
偏見から自由な位置で、
兄伯教は、庶民が日常使う白磁の美しさと出会い、
半島700ヶ所に及ぶ古陶磁の窯跡(かまあと)を丹念に調査・研究し、
朝鮮陶磁を時系列でまとめあげました。

弟巧は、半島の荒廃した山々の緑化に尽くし、
市井の朝鮮人とよく交わり、
庶民が日常使う木工品などのすぐれた美しさを知り、それを日本に伝えました。

巧は1931(昭和6)年に亡くなりましたが、
朝鮮の人々の共同墓地に、朝鮮の人々の嘆きの中に葬られ、
現在は朝鮮の土となって、
墓参する日韓両国の人々に多くのことを語りかけています。

巧の墓地に建てた追慕碑の言葉

巧が亡くなって55年後の1986(昭和61)年、韓国林業試験場職員一同がソウルの巧の墓地に建てた追慕碑の言葉。

浅川巧の死
▼ソウル市立忘憂里墓地にある浅川巧の墓 1931(昭和6)年4月、風邪をこじらせた浅川巧は京城(今のソウル)の自宅で急逝しました。40歳の若さでした。巧の死が近くの村々に知らされた時、朝鮮の人々は次々と別れを告げに集まりました。
彼が愛したパジ・チョゴリを着た巧の棺は、応じきれないほど多くの人々の申し出により担(かつ)がれ、朝鮮人共同墓地に葬られました。
「日鮮(ママ)の反目が暗く流れている朝鮮の現状では見られない場面であった」と巧が大きな影響を与えた民芸運動のリーダー柳宗悦(やなぎむねよし1889-1961)は回想しています。
ソウル市立忘憂里墓地にある浅川巧の墓画像

1.山梨県の八ヶ岳南麓に生まれた兄弟

浅川伯教(のりたか)と巧(たくみ)は明治半ば、山梨県の八ヶ岳南麓の村(今の山梨県北杜市)に農業兼紺屋の長男次男として生まれました。
兄弟の父如作は、巧が生まれる半年前に31歳の若さで他界しました。そのため、父方の祖父が父親代わりに7つ違いのこの兄弟を育てます。ふたりはこの祖父から大きな影響を受けました。
祖父伝右衛門は、俳諧(はいかい)や茶道、陶芸にも造詣が深い知識人で、とくに俳諧は、この地域に江戸時代から続く結社「蕪庵(かぶらあん)」の宗匠でした。穏和な人柄により、多くの村人から信頼されていました。
家庭は質素で貧しかったようですが、「報酬のために事を行わない」祖父の生き方は、「自然に対してブルジョアであった」と、兄伯教は回想しています。


2.伯教、朝鮮の美に惹かれ朝鮮へわたる

朝鮮の美に惹かれ朝鮮へわたった伯教について
▼山梨県師範学校時代の伯教(1903年頃) 八ヶ岳の自然と祖父によって育まれた兄弟は、甲府で小宮山清三(1880~1933)という人物に出会います。伯教が八ヶ岳南麓を離れ、甲府の山梨県師範学校に入学し、メソジスト教会に通いはじめたのがきっかけでした。
4歳上の小宮山清三の家に出入りするうちに、伯教は家に置かれていた高麗青磁などの朝鮮美術の魅力に惹かれていきました。県内小学校の先生となり図工教育に力をそそぎましたが、朝鮮美術への憧れ断ちがたく、1913(大正2)年、結婚するとすぐ、京城(今のソウル)の尋常小学校教員となって朝鮮半島に渡りました。
山梨県師範学校時代の伯教 (1903年頃)

3.伯教、白磁と出会う

伯教と白磁の出会い
▼1914年、伯教が柳宗悦への手土産とした白磁
《染付秋草文面取壺》日本民藝館蔵
京城に着くと伯教はさっそく李王家博物館や骨董品店を数多くまわり、さまざまな朝鮮王朝の美術品に触れます。しかし、高麗青磁はすでに美術品として一級の評価が与えられており、簡単に手に入るものではありませんでした。
ある晩、古道具屋の前を通ると、明かりにポッと照らされた白い壺に伯教の眼は釘付けになります。これが、庶民が日常生活で使っている朝鮮白磁の美しさと日本人の最初の出会いでした。
教員生活を送りながらも彫刻家への夢を抱く伯教は、半島に渡った翌年日本に戻り、ロダンの彫刻を見せてほしい、と面識のない柳宗悦を訪ねます。手土産に携えたのが、半島で出会ったこの朝鮮白磁の壺数点でした。この訪問は、のちに民芸運動のリーダーとなる柳宗悦に朝鮮庶民芸術の美を伝え、民芸運動の基本的な考え方の影響を与えることになりました。
1920(大正9)年、三一独立運動の翌年に開かれた帝展で、伯教が制作した朝鮮人像《木履の人》が入選します。その後数年間、伯教は彫刻家として活躍しました。が、やがて朝鮮陶磁器の世界にのめりこんでいき、その研究に専念するようになっていきました。
日本に伝来した朝鮮陶磁器を調査し、『釜山窯と対州窯』を発表。朝鮮全土にわたる本格的な窯跡調査を始め、700ヶ所に及ぶ窯跡を巧とともに訪ね歩き、朝鮮古陶磁を時系列でまとめあげました。
著書『李朝の陶磁』は韓国で高い評価を受け、伯教は「朝鮮古陶磁の神様」と称されています。
写真6(準備中)

4.伯教と巧、柳とともに「朝鮮民族美術館」を設立

朝鮮民族美術館の設立について
▼壺をもつ浅川巧 弟の巧は1891(明治24)年に生まれ、山梨県立農林学校を卒業すると、秋田県の大館営林署に勤務します。伐採や植林を経験し、1914(大正3)年、兄をしたって朝鮮半島に渡り、朝鮮総督府農商工務部山林課に入りました。
伯教と親交があった柳宗悦が1916(大正5)年に半島を訪れたとき、京城の巧の家に宿泊しました。巧は朝鮮の人々が日常使う工芸品や雑器を、そのまま暮らしに取り入れており、柳宗悦は巧との出会いにより、さらに朝鮮工芸の美に強く惹かれ、深く関わっていくことになります。3人は、朝鮮にとって厳しい時代だったにもかかわらず、その美を生み出した民族を敬愛しました。
巧は、1920(大正9)年に千葉県に住む柳宗悦を訪ね、朝鮮民族のための美術館設立を計画し、兄伯教とともにその実現に情熱を傾けました。朝鮮民族のために美術館をつくろうと奔走する3人への風当たりは強く、朝鮮側からも疎んじられることがありました。
しかし、日本統治によって壊されていく朝鮮文化の保存の必要性を強く感じていた3人は決して豊かとはいえない経済状況の中、私財を投じて一つ一つと収集し、ついに4年後、「朝鮮民族美術館」を京城の景福宮内に開館します。
朝鮮の膳や壺、タンス・屏風など300点を超える工芸品が展示・保存されました。この美術館には、両国の交流の場としてだけではなく、日本による同化政策に抵抗するという彼らの思いも込められていました。
壺をもつ浅川巧

5.巧、半島の緑化を「自然法」に求める

半島の緑化について
▼韓国林業研究院(林業試験場)の中庭にある赤松 ▼巧の著書『朝鮮の膳』
韓国林業研究院(林業試験場)の中庭にある赤松 巧の著書『朝鮮の膳』画像
巧は本業の林業技術者としても頭角をあらわしました。
1922(大正11)年、京城郊外清涼里に林業試験場が設置されると「朝鮮松の露天埋蔵発芽促進法」を開発し、植民地化によって荒廃に拍車がかかった山々の植林・緑化に業績を残しました。この発芽促進法には、「山林を自然法に帰せ」という巧の基本的な考え方が投影されています。
巧は朝鮮半島に渡り、まずその土地の言葉を覚えることから半島生活をはじめています。「埋蔵発芽促進法」は、自分の基盤とは異なった風土・文化を尊重し、理解しようとする巧の基本的な姿勢から生み出された業績といえます。

巧は伯教とともに多くの窯跡調査を行いましたが、膳やタンスなど朝鮮の工芸品にも惹かれ、その研究に力を入れました。膳の歴史や材料の特色・製造工程等をまとめた『朝鮮の膳』、消えゆく朝鮮陶磁器の名称をまとめた『朝鮮陶磁名考』を著すほか、朝鮮の民俗に関わる論考を残しています。

6.巧、朝鮮半島に眠る

巧の死について
▼里門里の巧の墓にて。1931(昭和6)年 ▼朝鮮戦争の戦火から守られた巧の日記
里門里の巧の墓にて撮影された画像 巧の日記画像
1931(昭和6)年4月2日、巧は風邪をこじらせた急性肺炎のため、40年の短い人生を閉じました。緑化のための講演を各地で行って帰宅し、数日後に行われる例年の行事「植木祭」の準備を控えた矢先のことでした。
自らの意志で言葉を学び、朝鮮の国と文化と人を理解しようとすることから半島での生活を始めた巧は、林業試験場に近い里門里(いむんり)の朝鮮人共同墓地に葬られました。
1942(昭和17)年の都市計画で巧の墓は忘憂里(まんうり)の共同墓地に移され、1966(昭和41)年に功徳碑、1986(昭和61)年には追慕碑が、巧の業績と人柄を慕う韓国林業試験場職員の手によって建てられました。
そこには「朝鮮の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」と韓国語で刻まれています。
浅川巧の墓は日本人には長いこと知られないまま、韓国の人々によって永く守られてきました。韓国の人々、とりわけ故趙在明氏をはじめとする韓国林業試験場職員たちの理解と貢献があったからです。
現在も命日には彼を慕う韓国人が集まり墓参を行ってくれています。
伯教が亡き巧に向けて詠んだ短歌

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