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北杜市の地蔵(6)~(10)

更新日:

  1. (6)北杜のお地蔵さん:大泉町谷戸の道喜院の子育て地蔵
  2. (7)北杜のお地蔵さん:白州町上教来石教慶寺の揚仏さま
  3. (8)北杜のお地蔵さん:武川町山高高龍寺の200年前の地蔵尊
  4. (9)北杜のお地蔵さん:高根町村山西割のお花地蔵
  5. (10)小淵沢町高野 西村坂の鉦打(かねうち)地蔵

(6)北杜のお地蔵さん:大泉町谷戸の道喜院の子育て地蔵

掲載:広報ほくと2007 6月号 No.32 p.15

曹洞宗の古刹、城向山道喜院(どうきいん)の本堂前。高さ120cmの地蔵尊。

どうきいんの子育て地蔵

子育て地蔵と呼ばれるこの地蔵尊は、谷戸(やと)に住む信心深い夫婦が愛娘を病で失い、その霊を慰めようと建立したものといわれています。夫婦の悲しみやるかたなく、自分の子どものことを思って諸国を巡礼して歩きましが、その心の痛みは癒えることがありませんでした。困り果てたすえ谷戸に戻り、道喜院の庭に地蔵尊を建てました。夫婦は、自分だけとらわれず、世の中すべての子どもたちの幸せを祈ることによって、心の平安を取り戻していったということです。アジア・太平洋戦争末期(昭和20年7月)、道喜院の瓦葺きの広い本堂に、東京の子どもたちが寝泊まりしていたことがあります。東京の空襲を逃れて、家族と離れて集団疎開してきた、東京四谷第三国民学校の子どもたちです。戦争が終わるまで、ここから泉国民学校(今の市立泉小学校)に通いました。
子どもたちが道喜院に来る5年前に建てられた「子育て地蔵」。この地蔵には、谷戸の親たちの祈りだけではなく、親元を離れて暮らす当時の東京の子どもたちの祈りも吸いこまれているかもしれません。
地蔵データ:右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持つ。丸彫立像。子安地蔵とも呼ばれ、子授け・安産・育児などが祈願される。銘「紀元二千六百年七月十五日浅川高治敬建之」。紀元2600年は、昭和15(1940)年。像の高さ120cm、台座の高さ140cm、全高260cm。


(7)北杜のお地蔵さん:白州町上教来石教慶寺の揚仏さま

掲載:広報ほくと2007 7月号 No.33 p.17

願いが叶うときは持ち揚がり、ダメなときは重くなる。揚げ地蔵。

揚げ地蔵

教慶寺(きょうけいじ)の檀家さんたちは、この地蔵尊を揚仏(あげぼとけ)さまと呼んでいます。僧衣をまとい、右手は衆生の願いを聞き届ける与願印(よがんいん、掌を差し出した形)、左手には数珠。
上教来石(かみきょうらいし、現在の白州町)の教慶寺は、今でこそ無人ですが、開祖は蘭渓道隆(らんけいどうりゅう、鎌倉中期の名僧)といわれ、鎌倉の建長寺の開祖。
当時、教来石の地に悪病が流行し、上人は、寺の南側の空き地に堂を建て、仏の開眼法要を行ったのだとか。この仏さま、悩みを祈願すると、その成就をまるで占い師のごとく見極め、「願い成就」と出れば、祈願者は軽やかに仏さまを持ち揚げることができ、「成就は無理」と出れば、仏さまは、それはそれは重くなり、持ち揚げることができなくなる。その軽重で、願いの成・不成就がわかるのだとか。それで人々、病気のこと、商いのこと・・・、さまざまな相談をもちかけたのだそうです。
つい十数年前まで御堂はありましたが、今は取り壊され、揚仏さまは住みなれた教慶寺を離れ、檀家さんの手によって、本寺清泰寺に安置されています。ふと思いつき、事を祈願し持ち揚げたところ、その重いこと。恐れながらも揚仏さまの重さを測ってみたら、2kgでした。
地蔵データ:右手に衆生を救う与願印、左手に数珠を持つ。丸彫坐像。石造。像の高さ20.5cm、像の幅15cm。重さ2kg。造立年代不明。高僧蘭渓道隆の姿と考えられる。


(8)北杜のお地蔵さん:武川町山高高龍寺の200年前の地蔵尊

掲載:広報ほくと2007 9月号 No.35 p.19

武川町内の地蔵菩薩は、ほとんどが寺の境内や大門先に。

武川町山高高龍寺の200年前の地蔵尊

高龍寺(こうりゅうじ)の大門先に、石に浮彫りした小さな地蔵尊があります。蓮華の花びらをかたどった光背(こうはい)を背に、両の手を合わせた合掌(がっしょう)像です。光背には、成人男性の戒名(かいみょう)、横には「寛政八」と刻まれています。故人の供養として、今から211年前に造立されたものです。
供養としての地蔵尊は、子供の墓碑や供養碑として北杜地域にも数多くみられます。賽(さい)の河原で地蔵が子供を庇護することから、現在でも深く結びついているのです。
ところで地蔵尊(菩薩)の役割とは?釈迦が亡くなってから56億7000万年後に人々を救うのが、弥勒(みろく)菩薩。その弥勒菩薩が現れるまで人々を救うのが、地蔵菩薩です。
地蔵信仰は、平安時代以降、浄土信仰とともに貴族・庶民に広まり、江戸時代になると、現世利益の民間信仰として発展しました。地蔵の地は大地のこと。大地は衣食住・金銀財宝に至るまで色々な物を人々に与えることから、庶民の願望が地蔵に込められました。
ちなみに、地蔵尊が左手に持っている宝珠は、欲しい物をすべて出してくれ、願い事を叶えてくれる珠。与願印(よがんいん)は、何でも願いを聞いてあげますよ、という意味です。


(9)北杜のお地蔵さん:高根町村山西割のお花地蔵

掲載:広報ほくと2007 10月号 No.36 p.17

水田の傍(かたわ)らにたたずむ地蔵尊は、昔、隣村から嫁いできたお花さん。

お花地蔵

昔のこと。大泉村西井出の長者の娘が、熱見(あつみ)村西割(今の高根町村山西割)に嫁いできたそうです。娘の名はお花といいました。嫁入りのとき、お花さんは実家の西井出から水を引いて持ってきました。一生分の化粧用の水です。透明で涼やかな八ヶ岳南麓の水は、何よりの化粧水だったのでしょう。その水は、西井出を流れる甲(かぶと)川を堰き止めて、東南の方向に流し西割地内に引き入れたもの。木の皮でつくった樋(とい)で黒澤堰(くろさわせぎ)の上を越して引きました。今でも、村山西割の北の山中に、「木の皮堰」と呼ばれる堰の跡が残っているといわれています。
さてこのお花さん、「まくんだ川」の東に住んだので、このあたりは「お花べーし」と呼ばれました。「まくんだ」とは「まこも田」という意味。マコモが生える田だそうです。「ベーし」とは「林」のこと。この二つの地名は、現在でも古老たちにしっかり記憶されています。いま、黄金色に広がる水田を望む道ばたに、小さな地蔵尊がたたずんでいます。「お花地蔵」と呼ばれるこの地蔵尊のいわれを知る人も、少なくなってしまいました。
地蔵データ:光背型立像。合掌像。石製。光背の高さ46cm、横幅26cm。浮彫立像の高さ24cm。台座の高さ15cm。造立年代不明。銘なし。石は風化しはじめています。


(10)小淵沢町高野 西村坂の鉦打(かねうち)地蔵

掲載:広報ほくと2007 12 月号 No.38 p.27

獣道(けものみち)で、一体の地蔵尊が、今も釜無川を見下ろしています。

かねうち地蔵

小淵沢町高野(こうや)地区の生活道路は集落はずれにある墓地の前で途絶えるのですが、クマザサをかき分けて入り込むと、やがて釜無川が眼下に広がる急峻な崖上に辿り着きます。崖から落ちぬよう道無き道を下ると、馬頭(ばとう)観音(かんのん)像に出逢い、さらに下(くだ)ると、釜無川を見下ろしている一体の地蔵尊に出逢います。出逢うことで、この山道が、かつては人が行き来する生活道路だったと知ることができます。
これが「西村坂」。花水坂や松木坂と同様に、八ヶ岳の台地上と釜無川流域を結ぶ道の一つでした。地蔵尊は「鉦打(かねうち)地蔵」と呼ばれていました。こんな話が残っています。昔、釜無川沿いの教来石(きょうらいし)(白州町)で、旅僧と山伏(やまぶし)が法力(ほうりき)を競いあったときのこと。山伏は大石を獅子(しし)に変えて空を飛び回させると、対抗して旅僧は、持っていた鉦(かね)を飛ぶ獅子めがけて投げつけた。見事、鉦は獅子に命中し、獅子は大石に戻り、落下した所が西村坂。山伏はその下敷きとなって圧死・・・・・・。村人は地蔵尊を建てて山伏の霊を祀(まつ)り、以後、鉦に打たれたことから鉦打地蔵と呼ばれ、夜、西村坂を歩く旅人の安全を、老人に化身(けしん)して守ってくれるようになったという。
西村坂。今はすっかり、忘れられた道となりました。
地蔵データ:光背型立像。右手に錫杖、左手に宝珠。石製。光背の高さ135cm。台座の高さ25cm。浮彫立像の高さ89cm。造立年代不明。銘なし。


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